《ひまわり》1888年
油彩・キャンヴァス
100.5 ×76.5cm
   
  15本のひまわりが、黄色い壺に入っています。 眼のような赤い点を持つ一輪が核となって、豊かな花が広がり、1つ1つが表情を持つ花達は、全体で生命の輝きをうたいあげています。 ゴッホの画家としての出発は遅く、わずか10年の間に2000点を超える作品を残しました。 人生に、生活に苦しみ、37歳で絶望の果てに死を選ぶまでの、激しく短い生涯から、「ひまわり」は、ゴッホ自身をも象徴すると評されます。 ゴッホには、「ひまわり」が12点あり、その内7点が、ゴッホ芸術の最良期であるアルル時代の作品です。 浮世絵に見た日本の明るい光を求めてアルルへ来たゴッホは、芸術家村を夢見て、「黄色い家」を借り、ゴーギャンを迎える部屋に12点の「ひまわり」を飾ろうと考えました。 残念ながら「ひまわり」は、7点で終わり、ゴーギャンとの共同生活も2ヶ月で破れています。 この作品は、ロンドンのナショナル・ギャラリーの「ひまわり」(1888年8月)をもとに描かれたものです。ゴッホは同じ題材を気のすむまで描く画家でした。 ひまわりの季節はとうに過ぎていましたが、描き続けることで、色彩の効果を試したり、画面の整理をして行きました。 この作品には、ゴーギャンがアルルに来て買った20mのキャンヴァスの一部が使われています。「アリスカンの並木路、アルル」に使われたのと同じキャンヴァスです。(1987年収蔵)
 
   
 
1853年 3月30日、オランダ南部のズンデルトに、牧師の子として生まれる。
1857年(4歳) 弟テオ生まれる。テオはその後画商となり、フィンセントを生涯にわたり、経済的かつ精神的に支える。
1869年(16歳) 美術商グーピル商会ハーグ支店の店員になり、多くの絵画に親しむ。
1873年(20歳) ロンドン支店に栄転。
1874年(21歳) 下宿の娘に求婚するが断られる。聖書を読むことに没頭する。
1876年(23歳) 店を解雇され、教師になるも年末には辞める。
1877年(24歳) ドルトレヒトで書店店員を経た後、牧師を志す。
1878年(25歳) ブリュッセルの伝道師養成学校で実習。
ベルギーの炭坑町ボリナージュで熱心に伝道し、あい間にスケッチをする。
1879年(26歳) 献身が常道を逸しているとして伝道師を解任される。
1880年(27歳) 画家になる決心をする。
1881年(28歳) エッテンの家に帰る。従姉に求婚を拒まれ、ハーグへ。
1882年(29歳) オランダ各地に移り住み、制作を続ける。
農民生活や肖像画、風景など、方向性が定まってくる。
1886年(33歳) パリで弟テオと同居。
ロートレック、ゴーギャンらと知り合う。
印象派を理解しはじめ、色彩が明るくなる。浮世絵の影響を受けるl。
1888年(35歳) 2月、「日本の光」を求めて南仏アルルに移る。
5月、「黄色い家」を借り、画家たちとの共同生活を企てる。
10月、ゴーギャンと共同生活開始。
11−12月、《ひまわり》を描く。
12月、精神病の発作を起こして自分の耳を切断し、入院。
1889年(36歳) 1月、退院。制作再開。
5月、サン=レミの精神病院に移る。たびたび発作に苦しむ。
1890年(37歳) 5月、パリ郊外のオーヴェール=シュル=オワーズに転居。
7月27日、小銃で自分を撃ち、2日後に死去。
1891年 弟テオ、死去。
1892年 アムステルダムでテオの未亡人の世話によりゴッホ展が開催される。
1901年 ベルナイム・ジュヌ画廊で回顧展。ヴラマンクらが感銘を受ける。
1905年 アムステルダム国立美術館で大回顧展が開催される。
   
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